中学生日記 芽生え



夏休みも終わろうとしている頃 地区の夏祭りに 一緒にいった。


出店で見つけたペンダントを プレゼントしあった。


二つ合わせると ハートになるもの


2学期が始まり クラスも 落ち着いて来た頃には 文化祭の出し物を何にするかの話し合いや 練習が忙しくなってきた。


クラスでは合唱をすることに決まり ピアノの上手な女子が一人 ギターが上手な男子が一人 残りは歌担当


歌は 22才の別れ


思えば 渋い曲


鼻唄でもずっと この曲が出るようになって気に入ってきた。


文化祭当日 K君が欠席した。


初めて休んだ


気になったが 風邪でもひいたのかなと思っていた。


翌日も翌翌日も 学校には来なかった。


家に電話をかけたら K君のお母さんが電話に出た。


お母さんの話によると 体の調子があまり良くなくて 今検査入院してるんよ とのこと


1ヶ月以上欠席が続いた。


担任からK君のお見舞いに行くけど 向坂お前も行くか?


うん、行く 


どんなになっているんだろう?痩せてるんかな?それとも太っているかな?


久しぶりだけど 先生やお母さんも居るだろうし 何を話したら?


日曜日だと言うのに制服を着て 先生の車で病院にいった。


短時間の面会のみの許可だった。


何も話せなかった。


私はお揃いのペンダントを身に付けて行ったのを無言のまま K君に見せた。


K君はお守り袋を見せてきて 指差していた。


帰り道 先生と元気そうだったね と話をし 病名を聞いたが誰にも話すなよと釘を刺された。


病名は 肺結核


初めて聞く病気に 帰宅後すぐに母親に訪ねた。


昔は その病気でたくさん亡くなっているが 今は治るのかね?って言われた。


私は不安で仕方なかった。


治るのだろうか?また学校でも休日でも 会えるのだろうか?


手紙を出しても返事が来たのは 一度だけ

中学生日記 気になる存在



入学して すぐの頃は行事もたくさんある中で 学力テストと言うものにまず撃沈


あー もっと勉強しておけば良かった。


…かといってガリ勉ちゃんにもなれず途方にもくれず なるようになるさ🎶


気になる存在の男子K君と言う名である。


放課後連日のように 弾む会話に呆れ笑いして バイバイがお決まりになってきていた。


春の遠足 女子同士のお弁当を固まって食べているときに K君の話題がでた。


小学校の時に NさんがK君に告白したのを知ってる?


うん うん 知ってるよ。どうなったんだろうね?


降られたらしいけど 笑ってたよNさん


俺 男が好きなんだ!!!


私は 聞いた瞬間 初めての感覚に 毎日交わしている話って どんな感情で会話しているのかな?


確認もできない情報に まあ友達にこんな変人が一人ぐらい いても面白いかな


放課後 担任の先生が毎日教室に 来ては 早く帰れよ と言いながら教室から出ていくのが お決まりになってきた。


ある日 突然担任から お前ら 放課後毎日居るけど 変なことになるなよ と怖い顔して教室から出ていった。


変なことって名にかね?笑い話でしかなかった。


だって女子が好きな訳でもなく 男子が好きと言う情報なので まあ 先生知らないよね と思った。


やがて 苦手な試験も2度も乗り越え 終業式の帰りに 家の電話番号を教え合った。


今日時間も早いから 俺が卒業した小学校見てみる?


珍しいから行ってみようかな


道中 よそ者が入って怒られないか不安で仕方なかった。


私が卒業した学校より 校舎が少し古いかな  弾む会話に足取りも軽くK君の自宅の近くまで辿り着こうとする道だったらしい


神社があり、一休みしながら 小さい頃の話をして笑い話も…


しばらくボーッとしていたら K君から口に軽くキスをしてきた。


え?なに?とっさに出た言葉である。


学校で長話したら担任に変なこと言われるから 交換日記しようと誘われた。


初めて尽くしなので 何を書けば良いかわからないが 楽しそうなので 交換日記とやらが とりあえず始まった。


お互いの自己紹介を 最初は書き込んだ。


イラストも書いたりして…しかし二人とも何の絵か わからないくらい下手過ぎて 爆笑し 日にちが経つにつれ 日記らしい内容になっていった。

ちょっと立ち止まる日



昨日から 亡き両親のことを ふと思い出すことが多く生前に言えなかったことを伝えたいです。

私は昭和37年11月24日愛知県で両親の次女として生まれました。

家庭の事情で 母の生まれ故郷でもある鹿児島の祖父母に預けられたそうだ。

望まれていなかったのかな~

預けられた祖父母にも 経済的な理由で 養護施設を出たり入ったりの末 祖父の他界がきっかけで両親のもとに帰されたそうだ。

私は自分が何故 転々としなければいけなかったのかを訪ねた。

父親は男の子を強く望んでいたらしい。

また女か、女は一人もう居るから跡継ぎの男の子がほしい と言うのが当初の転々とする理由らしい。父方の両親も男の子を望んでおり

母は実家に預けたらしい。

家族と暮らすようになったのは私が9才の時だ。


今さら何を思い出して愚痴を…

愚痴じゃないよ、感謝だよ。

早くから家を出て 反対する人と結婚 離婚を経験し 子育ても経験

今 おもえば父親は54才で病死 母親は61才で病死

私は今年60才になります。

お父さんとお別れした年齢をとっくに越えたけど 癌で痩せ細って旅立ったのだが 怖かったでしょうね。

辛かったでしょうね。

私も40才の時に癌の宣告受け治療や手術に至るまで成人も迎えていない娘をおいては旅立てない 治療に通う度にお父さんのことを

思い出していましたよ。病室で何度も 母に心配をかけるなよ と顔を見るたびにいってましたね。

お母さん あなたとお別れした年齢に近づいている私ですが 41才だったかな脳梗塞を経験し 治療をしてたころのことを思い出していました。

初孫でもある私の娘を とても可愛がってくれて 嬉しかったです。

貧しかったけど 楽しい思い出も苦しい思い出も 感謝しかありません。

どうして 生きて話せる間に 言えなかったんでしょうね。

苦労と迷惑しか掛けてバカ娘だったけど ありがとうね。

そして暮らしている世界は違うけど 娘と私を見守っていてほしい。

それだけで 私たち親子 まだまだ頑張れそうよ。

身勝手でごめんね。